幸せの追求についての駄文

September 08, 2021

これなに

怠惰な人間のただのエッセイ

幸せの実現は相対的で難しい

以下のようなトピックに想起を受けて、これを書くに至った。

  • 中国政府の産業規制
  • ブータンはネット解禁で幸福度が下がった
  • ネットの誹謗中傷による有名人の自殺
  • 都会 → 田舎暮らしに憧れる人

幸せは絶対的な指標として追求することがとても難しい。

それは振り返ると強く感じられるものであり、僕らが少年時代にノスタルジーを感じてしまうのも同じ原理だ。振り返るとあの時が一番幸せだったということは往々にして起こりうる。『夜と霧』において、アウシュビッツでの過酷な現状と比較されるのは、何でも無い家族との日常であったが、それこそが彼らの生存の礎となっていたのは言うまでもない。

これは幸せが相対的な実感であるからだ。幸せに絶対的な指標など無い。所謂、金・女・物、これら全てを手に入れた人間が、これら全てを持たざるものより、幸福度が低いということは大いに有り得る。

こうしたことを大前提として以下のような問題提起をしてみる。

「果たして真に利他的で幸福だけを創り出す課題解決・イノベーションなどありうるのか?」

幸せのコントロールなど出来るのか

「果たして真に利他的で幸福だけを創り出す課題解決・イノベーションなどありうるのか?」

この問を考える上で、自分がもう一つ、補佐的なアジェンダとして考えたいのが、人が人の幸せをコントロールすることなど出来るのだろうか?ということである。

一見ある人の課題を解決しているようなイノベーションでさえ、それのアップサイドを享受する人以外に、そのダウンサイドを享受する人が居るということが起こりうる。

何かを可能にすることが、可能にすべきでなかったことまで可能にしてしまうということである。

この例として、ネットの誹謗中傷を考えたい。

勿論、いや明白に、インターネットが可能にしたことを挙げたら限りがない。それほどまでにインターネットが多くのことを可能にし、多くの課題を解決してきた。それはこれからもそうだと思う。

しかしその反面、インターネットは可能にする必要の無いことまで可能にしたかもしれない。

インターネットが無い時代と比較して、一人の有名人が”直接的に”受け取る誹謗中傷の数は、恐らく潜在的に増えたと感じる。届く必要の無い声まで届けてしまうようになった。

こんなことを望んでインターネット黎明期の技術者達は汗水たらしただろうか。否。そんなわけがない。でも、結果を見るとどうか。今までに無い形で精神を傷つけられ、最悪の形としては自分の命を落とす結果となってしまった人が存在するのである。

この現象、すなわち、何かを可能にすることが、可能にすべきでなかったことまで可能にしてしまうということは、どんなに素晴らしく思えるアクトにも、潜在的にはありうるのではないか、というのが自分の考えである。

そのダウンサイドが現れるのが、時間軸的により長期の話かもしれないし、別のセクターに間接的に影響を与えているのかもしれないし、巡り巡って社会が悪い方向に揺れ動くということもありうると思っている。

※アニメ 『Vivy』 でターニングポイントとなる出来事が、必ずしも悪では無いことが、イメージとして近い。

だからといって、そうした課題の解決やイノベーションが必要無いのか?止めるべきなのか?という点について、それを否定するつもりは全く無い。

思うに、それはトレードオフであり、何かを可能にすることで必要の無い何かを可能にしているとしても、全体として可能になったことが多くなるようなバランスを取っていく。

というようなことが、一般意志としての人間の選択のような気がする。

その分かりやすい例が、ある時代ではGDPの成長の追求や、今だとSDGs課題の解決などなんじゃないかと。

ダウンサイドが少なそうな指標や課題に対してアプローチしていくということである。

ここで最初の問に答えていきたい。

「果たして真に利他的な課題解決・イノベーションなどありうるのか?」

これは、ある意味で、“無い”と僕は感じている。

課題解決や、イノベーションはどこまで言っても、利他的ではなく、人間一人(N1)のエゴから始まるものでしかいない。

勿論客観的に見れば、すごく利他的に見えるとしても、その出発点や当人を突き詰めてみると、原体験に基づいたエゴでしか無いと感じるし、それで良いと思う。

動物たる人間

つまり人間ですらどこまで言っても、動物であり、自然に打ち勝つことはできず、その生存のためにエゴを追求するしか無い。そして、そのエゴとエゴをぶつけ合うしか無いのである。

どんなに目に見える自殺率の原因を撲滅したところで、どんなに格差の原因を撲滅したところで、別の部分から膿が漏れ出して0にはならないと想像されるのと同じように、どんなに素晴らしい課題を解決していても、どんなに素晴らしいイノベーションでも、人類全体に+に働くとは限らない。

そうであるとするならば、人間はエゴを追求するしか無い。

「なぜ〇〇が無いのか?なぜ〇〇が起きているのか?なぜ誰も〇〇しないのか?」こうした憤りに近い感情が人を動かす。もしくは、単純に、個人的面白さの追求の先に、誰もが予想もしないイノベーションがある。

そしてそのエゴとエゴはときにぶつかり合いながらも、人間全体で進歩したり、時には、一歩前に戻ったりする。絶対的なある指標に対して向かうことなど不可能で、どうなるかも分からない中で全体として揺れ動いている。それがどんなに賢いとしても、人間の宿命なんだと思う。

だからこそ僕らが重要にすべきなのは、人間のエゴたる感情であり、憤りに近いものであると想像する。そしてそれを実際の行動に落とし込むことであると思う。

なぜ〇〇が起きているのか?なぜ〇〇が無いのか?なぜこんな世の中なのか?

企業で言えばミッションへの共感こそ、人を動かす力であるのと同じように。

結局の所、どこまで言っても人間は究極的に理性的であることなど不可能であるし意味がなくて、感情の部分こそ、人間の人間たる所以だという話なのかもしれない。


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